「無知の知」を知る。方丈記より。KAKOYOGAは京王線南大沢駅徒歩12分

昨日の夜は、作家仲間と鴨長明の『方丈記』の勉強会でした。この勉強会には、数年前から参加しています。

毎月、何を学ぶか決めて、その本を読了して参加。その本について忌憚のない意見を交わす。とても楽しい集まりです。

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例しなし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」の名文で始まる方丈記。

中学の古文の教科書に掲載されていたので、誰でも知っている一文だと思います。美しい日本語です。
しかし、全文を初めて読んでみて、鴨長明の印象ががらりと変わりました。『方丈記』のイメージも変わりました。

彼は、京都下賀茂神社の正禰宜官総官の息子として生まれた。おっぼっちゃまとして育てられたが、長明が18歳の時、父は34歳で亡くなる。そこから運命の歯車が悪いほうに回りだし、親族争いが起こり、父の跡目を継ぐこともできず、住んでいた祖母の家からも追い出され、最終的には京都の日野山の奥に方丈庵を営む。奥深い山ではなく、京の都に近い里山に居を構える。今でいえば、郊外だ。権力争いに何度も敗れ、自分の才能をある程度は認められてはいたが、自分の思うほどは認められない口惜しさが全編からうかがえる。

自然豊かな里山は、そんな長明の心を慰めたことだろう。この世の執着を手放そうとして、手放せない、長明の姿が浮き彫りになる。

やはり、本は切文だけ読んでも、全部を読まないと、その言わんとするところは、伝わらないのだと思う。

 

「知らず、生まれ死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る。また、知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといえども夕べを待つことなし」

この分も有名ですね。
人はこの世に生まれ、死んでいく。でも、何のために生まれてきたのか。また、死んだらどうなるのか、誰も知らない。自分の命のことなのに、何も知らない。こうした根本的な『無知』を知ることが、いかに生きるすべを身につけていくことになる。

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