不盗(アスティヤ)に徹した者のところには、あらゆる富が集まる 南大沢KAKOYOGA
ヨガの考え方に八支則がある。
ヤマは、やってはいけないこと。ニヤマはやるべきこと。
今日はヤマについて考えてみよう。
ヤマの中には、アヒムサ(非暴力)、サティヤ(正直,誠実)、アスティヤ(盗んではいけない)、
ブラフマチャリア(禁欲、邪淫を慎む)、アパリグラハ(貪らない)の5つだ。
これらは、社会生活を円滑に行うための道徳的な考え方だ。
先日、アヒムサについて書いたので、今日はサティヤとアスティヤについて考えてみよう。
サティヤ(正直,誠実)は、嘘を言わないことである。アスティヤ(盗んではいけない)
は盗まないことを意味する。
日常生活のなかで嘘をつかないというのは案外難しいことだと思う。
「嘘も方便」ということわざがある。真実を言って、相手を傷つけてしまうことがあるかもしれない。そういうときは、沈黙を守ればいいのだ。
「ヨガ・スートラ」36の中に「サティヤ(正直)に徹した者には、行為とその結果が付き従う」とある。その口から一言も嘘が発せられないなら、事を為さずに事の成果を得る。物事が自ずから、彼のもとへ来る。つまり、正直者の思いは、すべてが現実になるというのだ。期せずして、願いが現実となって目の前に現れてくる。
実は、現実は自分の心の中から引き出された映像であるとも言える。だからこそ「こころこそ大切なれ」なのだ。
しかし、「嘘を全くつかない」というのは、日常生活の中では、大変難しいことだと感じる。「沈黙は金」という諺もある。
アスティヤ、盗まない。私は盗みなんかしないと思う人がきっと多いだろう。
でもよく考えて欲しい。人と約束して、待ち合わせに遅れることはないだろうか。これもれっきとした盗みである。時間に遅れることで相手の大切な時間を盗んでいるのだから。
不倫はもちろんいけない。恋に落ちた相手が結婚していたら、その相手とはきっぱり分かれるべきだ。
なぜなら、彼ないし彼女との時間は、相手の夫ないし妻との時間を奪っているからだ。
他人の不幸の上に自分の幸せを築くことはできない。それは砂上の楼閣と同じだ。
妻ある男性に恋したとしよう。なぜ、その男性が素敵に見えるのか? その男性の後ろには妻がいるからかもしれない。妻が夫を魅力ある男性にしているかもしれない。
となりの芝生が青く見えるように、妻から夫を奪うことができたら、案外、その男の魅力は消え失せているかもしれない。
「ヨガ・スートラ」37に「不盗(アスティヤ)に徹した者のところには、あらゆる富が集まる」とある。
もしも、世界一の富豪になりたければ、盗まなければいいだけだ。
しかし、これも難しい。自然界のなかで、息を吸って生きている。自然から一息ごとに盗んでいることになる。でも、息を吸わなければ死んでしまう。
では、どうすればいいか。一息一息ていねいに受け取り、それを他者のために活かすのだ。
つまり、自分の出来ることで社会や他者に奉仕するために自分自身を使っていくのだ。
それは盗みではない。
何も奉仕、貢献しなければ盗みになってしまう。
人はそれぞれが生きる使命をもって生まれてきている。自分の才能を社会に還元していこう。
もし、私たちが今自分自身が持っているものだけで満足し、かつ何らかの形で社会に貢献したり、他者に奉仕していて、盗みや貪欲と無縁であれば、そして、静かな心を保ち続けていれば、すべての富が私たちのもとに来るという。
簡単で難しいことである。
皆さんは、どう思いますか?